――この命は必ず守ってみせる。――

祐輔はそう思っていた。

祐輔は、2年前に結婚したばかりだった。それまでつきあっていた清花と長い交際の上、恋愛結婚した。年齢も適齢期だった。そして、1人目の子供を授かった。まったくと言って良いほど順調だった。

清花は病気がちだった。それだけに、妊娠が分かってからはお互い、特に健康には気をつけた。幸い、最初の3ヶ月は無事にすぎた。

しかし、悲劇が待っていた。その直後、清花は自宅で階段から転倒した。すぐに祐輔が救急車を呼んだが、医師は無情にもこう告げた。

「清花さんのケガは大したことはありません。しかし、腹部を強く打ってしまったので、お子さんはあきらめて下さい。」

一昔前なら、それで子供の命はあきらめなければいけなかった。しかし、祐輔はふと、昔の知人、英津を思いだした。英津は2人の共通の知人だった。最近、連絡がとれていなかったのには、わけがあった。

英津は高校生のとき、その高校の教師から東大理三、つまり超難関大学の医学部ということだが、そこに現役で合格すると太鼓判を押されていた。その太鼓判が本人に悪く作用していた。教師からことあるごとに東大看板のプレッシャーをかけられ、結局、受験直前になって体調を崩してしまった。

英津もまた、医者に無情の宣告を受けていた。

「勉強のしすぎでストレスがかかったみたいですね。胃に潰瘍があります。良性なので命に別状はありません。ですが、受験は、今回はあきらめて下さい。」

それを契機に、英津は糸が切れた人間と化した。結局、退院したものの、それから勉強することが怖くなり、果ては、それを押した高校の教師への恨みと発展。高校をやめてしまった。医師の道も夢へ変わった。

祐輔は英津と高校時代の知り合いだった。志す道は違っていたが、仲は良かった。しかし、英津の突然の高校中退にクラス中が大混乱、祐輔も例外ではなかった。問題なのは、その混乱のせいで教師と一部の生徒が対立し、一時は保護者も巻き込んで、それらの生徒は全員受験をボイコットしそうになった。

幸いにも、校長の説明でボイコットという最悪の事態は逃れたが、卒業式もその事件の余韻が残ったままだった。

祐輔は自分を強くもっていたので、そんな受験の「ケンカ」など、ばかばかしいものだと思って見ていた。受験も普通に済ませ、進学していた。

あれから8年、英津は祐輔に一度も連絡をよこさなかった。よこさなかったと言うよりは、事件の責任を自分のせいだと思いこみ、また、それなりに名の知れた学校だったため、一部の心ないマスコミからも報じられてしまい、まさに犯罪者扱いされていた。

祐輔が結婚したときも、そして子供ができたときも、祐輔は英津に電話でしゃべったものの、英津は「おめでとう」と言うだけで、多くを話そうとはしなかった。彼が今、何をしているのかもよく分からなかった。

結局、清花を診察した医師は、子供を降ろすことを勧めた。しかし、医師の対応があまりにも安直だった。もしも、英津が医師になっていたら、こんなに安直な提案はしないだろう。そう思って、ふと祐輔は英津に電話をかけた。

英津は予想外の対応を見せた。祐輔は、正直、また一言だけ言って、英津が電話を切ってしまうのではないかと思っていた。突然、声のトーンを変えて、こう話した。

「そんなの医師じゃない。だいたい、お腹を打ってからどのぐらい時間が経つんだ?」
「まだ半日もたっていないよ。」
「……あきれた。18時間以内なら可能性はあるのに。」
「どういうことだ?」
「俺の知り合いに、医学の研究者がいる。詳しくは分からないが、今、流産した子供の命をつなぐ方法を研究しているんだよ。」
「その人はどこにいるんだ?」
「名古屋にいる。おまえの住んでいるところは東京だろう。ちょっと待ってろ。その知り合いに今から連絡つける。」

英津はそう言って突然電話を切った。

英津の知り合い、圭太。それは、祐輔とともに同じ高校ではあったものの、あまり現役のときは勉強をしないやつだった。受験どころか卒業自体が危なかった。しかし、圭太はそれから浪人して名古屋にある大学の医学部に受かった。

英津は電話をかけた。時間がない。すぐに本題を切りだした。

「……で、おまえの今やっている研究で、この子供をどうにか救う方法はないのか。」
「1つある。でも、結果は保証できない。しかも、医療倫理上、難しい問題だ。下手にこれをやると、俺どころか大学の地位が地に落ちる。」
「そうか……。だめなのか。」
「いや、何とかなるかもしれない。英津、おまえ、最近何しているのか分からんが、EG細胞ぐらいは知っているだろう。」
「ああ。これでも過去に医学を志した輩だからな。」
「それを母胎に注射すれば助かるかもしれない。ただ、まだあまり成功例がないから、EG細胞を扱っているのはうちぐらいだ。その夫婦はどこに住んでいるんだ。」
「東京だ。」
「なら間に合うかもしれない。お前、普通の注射ぐらいはできるだろ。特別なのは注射するものだけなんだ。注射の方法自体は普通のと変わりない。」
「分かった。お前、今、大学の中にいるんだよな。」
「うむ。すぐに取りに来てくれ。俺は席を外すことができないが、お前がきたら渡すように申しつけておく。」

英津は、注射用具一式を持って新幹線に飛び乗り、名古屋へ向かった。その電車の中で、祐輔に電話をかけた。

「さっきは突然電話を切ってすまなかった。俺の知り合いが、子供を助けることができるかもしれないと言っていた。俺は今、名古屋へ向かっている。時間がないから、途中の浜松まで来てくれるか。」
「俺らは何の準備をすれば良いんだ?」
「時間がないから詳細は省くが、奥さんも連れてきてくれ。注射をするだけだから特別な準備はいらない。」

英津がそう言った直後、衝撃音とともに電話が途切れた。

新幹線の事故だった。脱線。携帯電話で話していたため、デッキにいた英津は衝撃で倒れた。携帯電話も落として壊れてしまった。すぐに車内放送で、避難するように指示がでた。

――こんちくしょう、こういうときに限って。今回といい、受験のときといい、俺は疫病神にとりつかれているのか?――

場所は浜松を少し過ぎたところだった。新幹線は浜松-豊橋間で寸断された。臨時ででたバスで豊橋まで行き、東海道線に乗り換えた。名古屋駅に到着した瞬間、ダッシュで圭太のいる大学まで行った。入り口のところで、身分証明書を見せた後、圭太の知り合いであることを言った。

「少々お待ち下さい。」

しばらくして、看護婦長らしき人がでてきた。

「おやおや、すごいことをする人かと思ったら、そうでもないね。あんた、本当に圭太の言っていた人かい?」
「身分証明書は見せたはずですが。」
「そういうことじゃないよ。あんたがEG細胞に関わるような人だとは信じられないって言っているの。」

――こいつ、俺の高校時代の事件を知っているのか?――

「あんたのような人にこの大学の名誉をかけるなんて、圭太ももう少し分かっている人かと思ったのに……。」

時間がないこととバカにされたことで、英津は思わず怒鳴りそうになった。そのとき、その人が持っている箱に丸印で「ブ」と書いているのを見た。

「この『ブ』ってのはどういうことだ。『ブツ』のつもりか?」
「物品。考えれば分かることでしょ。」

――人の命を救うものが「物品」だぁ? おふざけもいい加減にしろ。――

「人様の命を救うものを物品だとか呼んでいるなんて、あんたら正気か? 自分達の名誉のことしか真剣に考えている様子はないみたいだな。」

いきなりの英津の切り返しに看護婦長は言葉がなかった。英津はこう続けた。

「人間だって、その箱だって全て物質なんだから原子からできている。物扱いするんだったら、せめて『ゲ』とでも書いて原子の意味にでもしとけ。学のない芸をしやがって!」

自分でも何を言っているのか分からなくなった英津だが、ここまでつっぱったら引き下がれない。無礼承知で、その箱を奪い取った。

「言っておくが俺は窃盗犯でも何でもない。あんたの思う通り、俺はやくざな人間かもしれない。けどな、仮にも医師を目指した俺だ。人様の命を守るやつらが名誉ばっかり考えてどうするんだ! 俺は医師を目指すとき、そんな人間にならないようにってことだけは誓っていたんだ。もう少し患者に対しての礼儀をわきまえるんだな。」

吐き捨てるように言って、さぁどうだ、何か文句があるかという視線で看護婦長を見た。看護婦長は何も言わずに立ち去った。

それを確認した英津も足早に立ち去った。とにかく時間がない。すぐに電車に飛び乗った。

一方、祐輔と清花も新幹線に乗り込もうとしたところ、脱線事故のことを知った。浜松までは何とか通っている。時間との戦いだ。

数時間後、祐輔と英津は8年ぶりの再開を果たした。しかし、今は再開を喜んでいる場合じゃない。駅のホームは混雑していて接触の危険があるので、少し足早に、駅の外にでて、人ごみではないところで、自宅から持ってきた注射用具一式と「ブ」を取りだした。そのとき、警官がかけよってきた。

「何しているんですか?」
「見れば分かるだろ。注射しようとしているんだ。わけを話すと長くなるから、話は注射した後にしてくれないか。」
「そういうわけにはいかない。」

と警官が英津を取り押さえにかかった。そこを祐輔が止めに入った。祐輔は英津にアイコンタクトを送った。

「こら、警官の邪魔をするとどうなるか分かっているだろ!」

英津は今しかないと思って、清花に注射をした。その後、こう言った。

「ぶしつけですみません。何しろ時間がなかったものですから。これで貴方の大切なお子さんが助かると良いのですが……。」

そう言った直後、英津は警官に取り押さえられた。さらに、祐輔と清花にまで任意同行を求めた。英津はさすがに激昂した。

「おい、疑っている俺だけを捕まえるなら構わんが、なんでこの夫婦まで話を聞く必要があるんだ。だいたい、話は注射した後にすると言ったはずだ。どっちが威力業務妨害なんだよ!」
「疑わしい行為をしているから事情聴取しようとしたら、妨害された。取り押さえるのは当然のことだ。」
「あっそ。まあ話はすると約束するから後で耳にタコができるぐらい話すからな。その代わり、この夫婦さんだけは取り押さえるな。だいたい、この女性の方は妊婦さんだ。ケガもしている。事情聴取も簡単にやってくれ。俺とは違って『紳士的に』な!」

8年ぶりの再開は警官の邪魔によってあっという間に終わった。英津は警察官に連行を求められた。車に乗せられる前に、英津は祐輔に、圭太の連絡先を教えた。

「何かあったら、こいつに知らせてくれ。適切な指示をしてくれるはずだ。」