この作品について

2001年に書いたコラムをまとめたものです.高校生の時ですから,論理展開が甘い部分もかなり見受けられます(笑).

作品一覧

粗悪なHTML

ウェブサイトを作るときに避けて通れないHTMLについて書きます.HTMLの規格を定めているW3Cでは既に次世代のXHTMLの規格を定めていますが,それについても同様のことが言えるので,まとめて書きます.

今やインターネットの世界には無数のウェブサイトが存在します.しかし,その中でW3Cの規格に正しくそったHTMLによって構築されたウェブサイトはいったいどのぐらいあるのでしょうか.私の見る限りでは,多くのウェブサイトがHTMLの文法違反を犯した「間違いだらけのウェブサイト」だと思います.ブラウザはそういった文法違反に非常に寛容なので,ある程度文法が間違っていても何とかうまく表示してしまいます.うまく表示されているものだから,ウェブサイトの制作者も「これで良いんだ」と誤解してしまうのです.しかし,ブラウザの表示にだまされてはいけません.自分のウェブサイトに使われているHTMLが正しい文法になっていると思っている方は,以下のウェブサイトで文法をチェックしてみて下さい.何点とれるでしょうか.

http://openlab.ring.gr.jp/k16/htmllint/htmllint.html

ちなみに,私のウェブサイトのトップページは94点でした.実は,私も少し前までは正しいHTMLを書いているつもりでした.ところが,上の文法チェッカーでマイナス点をとってしまい,面くらいました.そして,文法チェッカーに指摘されたエラーを1つ1つ修正していって,今の点数までもってきたわけです.

多くのウェブサイトでは50点いくかどうかも怪しいと思います.気が向いたときにウェブサイトのソースを見たりするのですが,<img>に画像の説明を書くalt属性が記述されていなかったり,<p>を改行目的で使用していたりします.具体例を1つ1つ検証していくとなると枚挙にいとまがないので<img>のalt属性についてのみ触れます.

<img>のalt属性はHTML 4.0からは必須となっています.つまり,書かなければそれだけで文法違反になります.しかし,だからと言って適当に書けば良いというものでもありません.書き方のコツとしては,その画像を文字に置き換えるとしたら何という文字になるかを考えることです.alt属性を指定することで,何らかのトラブルで画像が表示されなかったときや,回線が遅いため画像を表示しない設定で閲覧をしているとき等にその文字列が表示されますし,目が不自由で音声デバイスを使ってウェブサイトを閲覧している方には,音声デバイスがalt属性に書かれていることを読み上げてくれます.必ずしもウェブサイトを閲覧している方全員が画像を見られる環境であるとは限らないことは考慮しなければなりません.そういう意味で,alt属性は必ず書くべきものであると言えます.

文法違反をおかした「粗悪なHTML」が蔓延したことは必ずしもウェブサイトの制作者だけの責任ではありません.制作者が参考にし得るHTMLの参考書の執筆者もそうですし,ホームページビルダー等の視覚的なHTMLエディタの制作者にも責任があります.参考書によっては文法違反のことを平気で書いていたりもしますし,視覚的なHTMLエディタが作成するソースにも文法違反が存在することは多々あります.間違った参考書を参考にしたり間違ったソースを作成するエディタを使用することによって間違ったHTMLが量産されたといっても過言ではありません.

「とりあえずブラウザで正しく表示されればいいや」という問題ではないのです.ブラウザは寛容なものが多いので多少の間違いがあっても正しく表示してくれますが,本来,間違ったHTMLというのは正しく表示される保証はないのです.きちんと仕様が定められている以上,HTMLを使おうとするならば,その仕様に正しく沿った,きちんとしたHTMLを書くべきです.せめて自分のウェブサイトぐらいは「粗悪なHTML」によって構築されたものにならないよう心がけたいものです.そしてHTMLの参考書を著そうとする人や視覚的なHTMLエディタを制作する人は正しいHTMLの知識をもってから執筆・制作にあたるべきです.これ以上インターネットの世界に粗悪なHTMLを蔓延させてはいけません.

論理的であること

人間は論理的な動物です.例えば,議論の場で自分の意見を主張をするとき,どのようにすれば相手を説得できるのか,また自分の主張はどのような考え方によるものなのかを考えます.ここで論理力がないと主張がうまくいかなくなってしまいます.自分の論理力をみがくことはとても大切なことです.

しかし,ただ単に論理的な人間であれば良いというものではありません.論理,つまり考え方というのは自分のもっている価値観や倫理観の強い影響を受けています.いくら論理の組み立て方が正しくても,価値観や倫理観が反社会的なものであれば,主張全体がだめなものになりますし,その人のもっている論理力もかなり無意味なものになります.

論理力をつけることはとても大切なことですが,そればかりを考えていると「机上の空論」を生み出す結果となります.日常生活の中で自分の視野を広げ,常識のある自分なりの価値観や倫理観を確立することが大切なことなのだと思います.

プロ野球の現状

まず始めに書いておきますが,私はアンチ巨人です.ですから巨人ファンの方から見れば個人的な感情が入っていると思われるかもしれません.しかし,この問題はたとえ私がアンチ巨人でなくても非常に不公平だと思うことなので書かせていただきます.

今の巨人の戦力を見て下さい.実に充実していますね.打者で言えば,他の球団へ行けば確実に4番になれる選手がゴロゴロいます.投手も充実しています.去年のオールスターのファン投票では9人中7人が巨人の選手でしたね.人気を集める選手というのもそろっているようです.しかし,いくらなんでもこれは充実しすぎではないでしょうか.自分の球団を強くしたいという気持ちは理解できますが,だからと言ってお金があることを良いことにひたすら他の球団から次々と優秀な選手をひっぱってくることは,プロ野球の人気を落とす原因にもなります.

今の風潮では,まるで「巨人は勝って当たり前」という感じです.その証拠の1つがここにあります.私は某懸賞サイトに参加しています.去年の日本シリーズで第何戦にどっちが勝つか予想するものがあったのですが,一番多い投票が「巨人が4勝0負で優勝する」でした.ダイエーが決して弱いチームではないことは確かですが,それにもまして巨人の戦力が大きすぎるのです.法律に例えれば独占禁止法に十分触れていると思いますね.

アメリカの大リーグでは,資金のある球団は資金のない球団に対してお金を払わなければいけないルールがあるそうです.それでも強い球団は強いままだと思いますが,1つの球団に戦力が集中して野球がつまらないものにならないようにという配慮が見られます.日本にはまだそういうルールがありませんね.ぜひとも導入するべきだと思いますが.

初めから勝ちが予想されているような試合は見ても面白くありません.それはアンチ巨人ファンに限らないと思います(もっとも巨人ファンの中には大差で相手の球団に勝つことにたまらない快感を感じる人もいるでしょうから,そういう人にとっては面白くてしょうがないでしょうけど).プロ野球にもっと活気をもたせるのならば,1つの球団に戦力を集中させるようなことは絶対にするべきではないと思います.

子供にも臓器提供の道を

私は,なぜ今の制度では子供が臓器移植の対象外となっているのか不思議に感じます.テレビで子供の両親が子供が外国(アメリカ等)へ行って移植手術を受けるために必要な資金の募金を街頭で呼びかけているシーンがあります.ただでさえお金がかかる移植手術なのに外国で行うとなればさらにお金がかかり,子供の両親に大きな経済的負担がのしかかります.また移植が必要な病気には後天的なものもありますが,先天的なものも多数存在します.よって,移植を必要とする子供の数は決して少なくありません.以上のことを考えると,可及的速やかに制度を改正し,子供も臓器移植を受けられるようにするべきだと思います.

テストについて

テストは何のために存在するのでしょうか.それは,今まで学んできたことがどれだけ理解できるかを試すものです.そして,テストによって出た成績について教師はどの生徒がどれだけ理解しているかを把握することができます.これは生徒を教育するにあたって必要な情報だと言えます.しかし,テストの点数で調査書や履歴書の内容が決まってしまうのはおかしいのではないでしょうか.

ここで1つ例をあげましょう.広い意味で考えれば入学試験というのはテストの1つです.同じ程度の学力の人が2人いて,その人は合格できるのに十分な実力をもっているとしましょう.理論的には2人とも合格します.しかし,実際には1人だけ合格してもう1人は不合格ということもあり得ます.それには,試験時の体調が悪かったとか,緊張しすぎてケアレスミスを連発したといったことも考えられますが,試験にでた問題とたまたま相性が悪かったといった場合もあります.このような原因によって浪人するかどうかが決まってしまったり,学歴に差が出てしまうのは非常に不条理なことではないでしょうか.

テストは人が作るものです.ですからテストによってはじきだされた結果というのはあくまで相対的なものであり絶対的な評価ではありません.なぜなら,テストを作った人のフィルターを通して数値化された評価にすぎないからです.もちろん,テストを作る人によっては絶対的な評価に近いものも存在するでしょう.しかし,そのようなテストを作れる人はごく少数だと思います.本来,絶対的な評価に限りなく近いものでなければいけない入学試験ですら,そのようなテスト問題を作っている学校はまれです.現に,大学入試では特に私立大学では大学によって問題にクセがありますし,国立大学でも大学によって問題にクセが見られます.また,センター試験にはセンター試験なりのクセがあります.学校の定期試験でも同じです.私は今まで数十個の定期試験を受けてきましたが,同じ科目でも教師によって問題にクセがあることが分かりました.私は今までは比較的教師のクセに合わせることがうまくできたので成績はどちらかと言えば良い方だったのですが,中には相性が合わなくて良い点数がとれない人もいるでしょう(私にも相性の合わないテストを作る教師というものは存在します).そんなクセ,つまり作問者のフィルターを通して数値化された評価を調査書や履歴書,および入学試験の合否判定に用いるのはおかしいと思うのです.実力はあっても独特のクセに自分を合わせられなかった,それだけで自分の評価が下がってしまうというのは,あまりにも酷ではないでしょうか.

近年,大学入試でAO入試が取り入れられてきています.これは学校の成績のみならず,特別活動(例えば運動部に所属している人ならば全国大会に出たとか)等も評価の対象とするものです.端的に言えば,成績という一面的なものだけで評価するのではなく,多面的に評価するものです.このような評価の方法は,試験の点数を見てボーダーラインより上か下かを確認するだけで合否を決められる筆記試験と違って,時間もかかりますし評価の仕方も難しいと思います.しかしながら,筆記試験に比べればはるかに優れた評価方法だと思うのです.このような評価方法をもっと現在の教育の場に取り入れるべきではないでしょうか.

社会人になれば色々な人と接することになります.それは色々なクセのある人と接することを意味します.人間関係をうまくやっていく上での1つのコツは,その人のクセを受け入れることだと思います(もちろん,そのクセがあまりにも強すぎる場合には無理にうまくつきあう必要はありません).ですから,クセに合わせる練習というのは必要です.しかし,そのような練習はテストで行うべきものではありません.人間関係の作り方を学ぶことは大切ですが,それがテストの場で行われ,それの出来不出来によって調査書や履歴書,および入学試験の合否判定に影響してしまうというのは非常に不条理なことだと思います.

結論として,教育の場で生徒を評価するときは,まずクセのないテストを実施するよう努めること,そしてテストの点数だけではなく,日頃の生活態度や特別活動,さらには人格等,多面的な評価をして,それをその生徒の「成績」としてだすべきだと思います.